母の所へ 4月17日

4月17、18日、1泊2日で母の所に行っていました。

AKIKO叔母(父は6人兄弟の次男、でAKIKOI叔母さんは6男の奥さん)さんからほとんど感じなかった、食器は1枚も割れなかったと聞いてはいても、いささか不安を抱えての福岡行きでしたが、福岡では本当に近くで地震が続いているとことはあまり感じませんでした。


17日、18日に私が福岡に行くことが決まってから、AKIKO叔母さんから17日に母を見舞ってくださるとの連絡があり、その偶然を喜び、是非お会いしたいと私の到着時間を知らせていました。

私が母の所に着いた時にはすでに叔母さんたち3人(叔母さん、従妹、従弟)と弟一家3人(弟、義妹、甥)は着いていらしゃって、母は6人に混じってちんまりと腰かけていました。


母に会うのは1月に母が入院したとき以来の3か月ぶり。

ずいぶん痩せて小さくなっていました。
そしてまるで人形のように無表情になっていて、事態が呑み込めているのかそうでないのか表情からはくみ取れません。
小さい声で何か言っているのですが聞き取れません。
余りにも母が無感動なので叔母さんたちに悪いと思いましたが、この期でよかったとも思いました。もう少し遅くなると完全に何もわからなくなるかもしれない気もするので。


叔母さんたちはこのあと従弟の出身大学の、移転した新校舎を見てから昼食を食べに行く予定とのことだったので、私も同行させてもらいました。
私は飛行機の中で羽田で買ったお弁当で早弁していたのですが、叔母さんたちはみな明るくて会話が楽しいのでもっとおしゃべりしたかったもので。


移転した大学は、広大な敷地に変わったデザインの建物が点在していてまるで北海道のような風景でした。



大学からパスタとピザの、行列のできる店に昼食に。
昼食を済ませたはずの私も勧められるままに2度目の昼食。
パスタ、ピザ、ドルチェ、どれも美味しかったですが、私は、店の前の、浮遊物がうかんでなくてずーっと向こうまで続く、天候のためか荒々しく波立っている玄界灘により感動を覚えました。

叔母さん、母の施設に送りとどけてもらい、その後7時ごろまで母の所に。
持参していったIMIさんの例のマフラーの編み残りの糸でまたマフラーを編み始めました。
IMIさんはまだマフラーを受け取りに来ていません。
半分以上余った編み残りの糸をどうするかは聞いていませんが、IMIさんとは長年の付き合いですから、このまま糸でおいてもしようがないから夫(または知人)用か、編み賃代わりに私用か、とにかくまたマフラーを編んでよ、という話になるに違いないと思うので、またマフーラを編むことにしたのです。
とにかく元に戻してとは絶対ならないでしょうし、マフラー編みは数独よりは母との静かな時間を過ごすにはうってつけなので。数独は車中用に持って行っていましたが。




ホテルの近くの中華料理屋さんで夕食してチェックイン。
予約はシングルだったけれど部屋割りの都合でと、ツイン、それも角の大きな部屋を割り当てられてラッキィー?
無駄に広い部屋は案外居心地悪かったです。