母の所に行ってきました。  (1)

12月7日、8日と例のごとく一泊2日のパックツァーで母の所に行ってきました。
施設の訪問記録を見ると、今年は1月、5月、7月、9月と行って今回は今年5回目の訪問だったようです。

12月7日
念のために飛行機出発時間の3時間前の電車で出発。
浜松町〜羽田間のモノレールで、前の席に座ったどこかしらお坊ちゃんという感じを受ける男子生徒の胸のバッチが見覚えがあるものに似ていたので、「あなた方、○○?」と聞きました。
「はい」「そう、私には娘が三人いて、三人とも○○の卒業生なのよ。台湾研修旅行に行くの?」「台湾研修旅行はもうなくなりました。オーストラリア研修旅行になりました。あれは高校生です。僕たちは中学生です。」「では越前?」「いいえ」「じゃどこに行くの?」「広島です。」「まあ広島、これも奇遇ね、私は10年ほど広島に住んでいたことがあるの。」などと。
中学研修旅行は全部で三泊で先に広島、それから京都に行くこと、研修旅行は娘たちと同じように班行動であること、大きい荷物は先にホテルに送ってあることなど、懐かしさのあまりいろいろ聞き出しました。
かましいなれなれしいおばあさんを終えてからも数独がしばらく手につきませんでした。


娘たちが○○に通っている頃は私の今までの人生で一番経済的に苦しい時期でした。
私立だからそれなりに授業料がかかるところへ、三人の娘は三歳違いだから、私が関所と称していた入学費、進学費が重なる年が三年ごとにあって、その時には(私には)大金が必要でした。
その上にスクールバス代(確かまとめて払った)、研修旅行積立費等々払っても払っても息をつく暇もなく次々に何かの払い込み期限が来ました。
まるでもぐらたたきをしているように思えていました。
Kの、まあ大手ではありますが普通の会社員のサラリーが我が家の主な収入でしたから、その学校費用はかなりの重圧でした。今思えばよくやりおおせたと不思議に感じられるほどです。
研修旅行が台湾でなくオーストラリアだったらもっと費用が掛かるのだろうなあ、今だったら果たして娘たちを○○に通わせられただろうか、経済的負担にもっとあえいでいたかも知れない、思うだに恐ろしいなどといろいろ感慨に浸りました。


さて11時ごろ福岡に着き、天神に出てランチして、三越で母への土産に小ぶりのチーズケーキとシュークリームを買いました。


2時ごろ母のいる「しろくま園」着。

母はあまり変わっていませんでした。
導尿はお腹が痛いからとオムツになっていました。
前歯が数本欠歯になっていました。
言葉が聞き取りにくくなっていて何回繰り返してもらってもなかなか聞き取れません。口を開けっ放しにして発語するのであーあーとしか聞こえないのです。
もともと白のセメントで固めてあった、母の下の前歯数本は、ある日、抜けてベッドの上にころがっていたそうです。歯が少なくなったことで食事が柔食から刻み食になったことを母は嘆いていました。(母は元気な時は固い食べ物が好きでした。)
今日になって思い至ったのですが、歯を失った影響は食事が刻み食なったことだけでは終わらず、刻み食は噛まないでいいから噛む力がなくなった→口をあまり閉じなくなった→言葉が不明瞭になったというにつながったのでしょう。


今回の福岡行が決定してすぐに日程を弟にメールしました。
返信はありませんでした。
7日の夕方の再度のメールにも返信なし。よほど忙しいか義妹に遠慮したのでしょう。義妹は弟と私が合うのはあまり歓迎しないようですから。


6時ごろ園をでて天神の、ランチをした隣の店で夕食。
この前見舞ったKのすぐ上の兄のお嫁さん、MCHI子義姉は一人ではレストランに入ることができないとおっしゃっていましたが、私はできます。
でも一人でレストランで食べる夕食はわびしいです。