愕然

14日15日と一泊でKと6月末に新しい施設に移っていた母を見舞ってきました。
私はこの施設に見舞いに行くのは初めて。7月に見舞いに行った下の妹から聞いてはいましたが、予想以上に立派な施設でした。
街のど真ん中にあって交通至便で新しく広く、セキュリティーがしっかりしていて職員の方はどなたもニコニコと親切。
ところが・・・肝心の母は、短期間にこれほど変わるのが信じられないほどの変わりようでした。
頭を常に傾げていて、目はうつろ、声が小さく言葉は不明瞭、口から絶えずよだれを垂らしていて、顔中無駄毛だらけ、足はむくんでパンパン。
愕然!大ショック、でした。


施設から14日、15日に行われる敬老会の案内を頂いて、どうせ見舞うならとこの日程に決め、始発の電車で出かけました。
11時40分開始の式にぎりぎり間に合って、アトラクション(寸劇、高校生のダンス等)を楽しんで一緒に昼食。(私たちは母と同じ献立のお弁当)。母は時間はかかったものの一人で完食。でもその食べようはなんだか無理にというか義務にというか生の執念のみで食べているかのようで、これまた愕然でした。


施設に着いて飛行機の中で切っていた携帯のスイッチを入れたら、義妹からI叔父の訃報のメールが入っていました。
亡き父は6人兄弟の二男でしたが、I叔父は三男、上の妹の養父でした(I叔父は94歳でなくなり、兄弟6人のうち存命者は5男、6男の二人になりました。)
弟は出張中なので、義妹は子供(私からいえば甥や姪)三人と通夜に行くという。
私のみ同行させてもらうことにして、まずは弟宅に行き、それから車で1時間余りのA市に行きました。
義妹、甥、上の姪の三人は別府に向かいそこからフェリーで四国のN市の両親(ともにアルツハイマー)の所にいくというので、帰りは私と下の姪の二人はハイウェイーバスで。


15日は、Kと私は夕方飛行場で落ち合う約束で日中は別行動。Kは柳川に行き大宰府によって入試合格を祈念してきたようです。
私は施設に行き、11時ごろ着いた下の妹と昼食に行きから母の好きなカステラを買って戻り、1時半からの敬老会(100歳以上の入園者を祝って吹奏楽の演奏を聞く)に出席。
部屋に戻って母にカステラを食べてもらったり、昨日剃ったのにまた伸びている無駄毛を剃ったり爪を切ったり、お互いの近況を話したりしているうちに、母の声が少しだけ聞き取れるようになってきて、少し以前の母が戻ってきました。
妹は、孫が泊りがけで来ているから夕食を作ってやらねばと三時過ぎに駅に向かい、私はもう少し居て飛行場に向かいました。


早めの時間の予約を取っていたのですが、折り返し使用する飛行機の羽田からの到着が遅れたという理由で、飛行機が大幅に遅延。
家に帰り着いたのは11時過ぎでした。



施設の滞在時間は2日間あわせても大した時間ではなかったけれど、母の日常の生活ぶりがほぼわかりました。
施設は今までいたところより格段に広い。当然職員の皆さんの動く範囲も広い。
だから母たちはお世話?管理?しやすいように朝起きて着替えると立派な(立派過ぎては母が自分の力では動かせない)車椅子に乗せられて中央のホールの定位置に運ばれ、そこで一日に大半を過ごしているようでした。
そこからトイレに行き、そこで食事をし、会話をするわけでなく(会話できる人が少ないのかな)、TVをみるでなく、何するわけでなく、ただ椅子に座ったきりで一日を過ごしているのです。
自分で動くことが以前の施設より格段にすくなくなった、そういう生活こそがきっと母の急速な衰えの原因、こう思っても間違いないでしょう。
ここ数年はそれほどでもなくなってきたけれど、それ以前は母に冷たい態度をとりつづけていた私も、今回の母の様子はさすがに堪えました。
施設からの敬老会の招待状を受け取ったのは私だけで弟も妹も受け取っていませんでした。
私に招待状を送ってきたのは母の意思なのでしょうか。もしかしたら母は私に救いを求めているのかもしれません。
私に何ができるのか、できることがあったら後悔しなくらい頑張ってみようと今回は心から思います。
このままにしておくのにはあまりにも心が痛みますから。